麦わらの帽子の君が の「の」。
昨年の大みそかのこと。紅白歌合戦をボケーっと見ていると、「あいみょん」という女性シンガーソングライターが出場していた。ここ数年はあまりドラマなどを見ていないので正直、どんな方か存じ上げていなかったが、名前からの響きからして、
- 地下アイドル?
- 頭が緩そうなギャル系の女性?
- ネット動画発の歌い手?
だろうと予測し、特に興味を抱いていなかったが、順番になると良くも悪くもその辺にいそうな若い女性がテレビに映る。演奏前のトーク情報によると、広瀬すず、白石麻衣(乃木坂46)らも彼女のファンであるという。どうやら若い女性に人気らしい。
麦わらの帽子の君が
揺れたマリーゴールドに似てる
の部分は強烈に頭に残った。歌詞を注視すると「麦わら帽子の君」ではなく「麦わらの帽子の君」と歌っている。この方、天才的だなと思わずうなってしまった。麦わら帽子と麦わらの帽子、この違いはいったい…という違和感を感じる人もやはりいた。
「麦わらの帽子の君が 揺れたマリーゴールドに似てる」
— PokeMarupun@新宿セントラルパーク (@PokeGoMaru1) 2018年12月31日
昨夜の紅白でも歌われた大好きなあいみょんの歌詞なんだけど、この「麦わらの帽子の」ってところが何度聴いても引っかかる。「の」が続くのが気になるし、「麦わら帽子」は一つの単語だろうって思ってしまう。みんな平気なのかな。#あいみょん
おそらく楽曲を作る際、メロ先で作られるだろうから、歌詞の音数を合わせるために麦わら「の」帽子 という意味の上で揺れがでない助詞を挿入したということなのだろう。ただ、そう考えると別に「あ~麦わら帽子の君が揺れたマリーゴールドに似てる」でも、大差ないように感じる。大サビ部分は
ああ アイラブユーの言葉じゃ
足りないからとキスして
となっている。この違いって何なの?って考えてみる。「麦わらの帽子の」の部分の歌詞は歌中で映像的な箇所である。そうすると、麦わら帽子と1単語、1文節にするよりも、麦わらの帽子と2文節にすることで、(麦わらという)素材→(帽子の)形と聴き手側への情報伝達がゆっくりと進み、「麦わらの帽子の君」が鮮明に頭の中で立ち上がる。そのことで、「揺れたマリーゴールドに似てる」という次に来る歌詞も印象的に残る、といった流れになっているのではないか。歌詞の映像としての立ち上がりが見事すぎる。逆に「アイラブユー」は、感情に属する言葉なのでそれを強調するためのオノマトペ「ああ」で構わない。
・・・みたいなことを、元旦の一日かけて考えていた。自分の中で答えが出てスッキリ。
その後、松の内中はあいみょんの楽曲をヘビーローテーションし、インターネットでの情報収集に勤しんだ。
各方面で「女子学生の共感で人気になっている」という論調で紹介されているが、おそらく、このあいみょんの楽曲にはそれにとどまらず、世代を越えて伝わるパワーがあると思う。
女子学生の共感を持つであろう、彼女自身の本音っぽい歌詞の曲はいくつかある「どうせ死ぬなら」、「貴方解剖純恋歌~死ね~」などだ。これらの楽曲を聴くとその層から真っ先に人気が出たことが頷ける。「死ね、私を好きじゃないのならば」、「どこ見てんの、胸の谷間なら私にもあるし」…あまりにも赤裸々な心情描写が「西野カナ」とかになんとなくのれない女子の心に突き刺さるのだろう。ただ、この作詞の方向性はどこかで、届く限界を迎える。
アラサー男子の私には、正直「女子中高大生の自意識語り」は、それほどまでに刺さらず、過去に聴いた大森靖子や倉橋ヨエコと同系統の印象しか残らなかったはずだ。女子中高大生の自意識を代弁するアーティストは各時代時代にいたはずだ。
しかし、あいみょん がこれらのアーティストと一線を画すのは、歌詞のアプローチの広さである。自分を赤裸々に描くアーティストは常に等身大の自分が限界になる。20代になるにつれ、思春期的な歌詞には無理が出てくるだろうし、メジャーデビューに際して、より大衆的なヒットを狙えば、「あなたに会いたい」、「失恋して悲しい」としか実質的に言っていない薄い歌詞になり尖りがなくなる。
だが、あいみょんにはそういった行き詰まりを乗り越えていると思う。それは何か。「他者目線に立つことの圧倒的なうまさ」である。彼女はもともと他人(他者性)を描く引き出しが初期から多い。特に楽曲の一人称を変えることで、等身大の自分とは全く違う世界観を持つことに成功している。赤裸々さでなくフィクションを描くことによって自分を乗り越えた自由な作風を可能にしている。 男女の双方の視点が交互に歌われる「分かってくれよ」や大人の男性の心情を描いた「ほろ酔い」などの佳作が多くある。
あいみょん - ほろ酔い [slight intoxication]
そして、メジャーデビュー曲にして自殺した少女を歌った衝撃作「生きていたんだよな」は、少女の思いを推測しながら、湧き上がる自身の感情が見事に表現されており、彼女の他者への想像力の高さを感じさせ大傑作だ。
話を「マリーゴールド」に戻す。「麦わらの帽子の君」。いまどき青年誌のグラビアでしかないような空想上の美少女的アイコンが出てくる世界観である。赤裸々な曲ばかり歌っている彼女であったならばこの、ロマンティシズムとノスタルジック全開の路線に、違和感を感じる人もいたかもしれない。しかし、等身大の自分からさえも自由になっている彼女であるからこそ、このような普遍的なロマンチックを探究した描写が可能になるのだろう。
J-popの最大公約数的な「みんなこんな風なのが好きなんでしょ」ではなく「私はこれが美しいと思うの」その表現を突きつけられていたと感じたとき、私の心はそれに同意したのか、ふと泣きそうになっていた。
ちなみにマリーゴールドの花言葉が「絶望」であることを留意して聴くか聴かないかで、悲しい歌にもなり、希望の歌にもなる。あいみょん自体は花言葉の件は完成後に知ったらしいが、聴き手に解釈が程よく委ねられ、懐の深い名曲だなと感じる。
小澤直樹
ちなみにこのブログは家庭教師集団ヘルベテのブログです。お気軽に勉強の悩みなどご相談ください。