aiko論リターンズ(序)余は如何にしてaiko信徒となりし乎
僕は5年半ぐらい前に歌手のaikoにハマった。TSUTAYAで聞ける曲は全部聞いた。周囲の人には「aiko好き」を公言し、良さを伝えてきた。
次第にその「好き」も音楽アーティストが好きで聞いているという域から外れ、一時期は車の長距離移動中に繰り返しaikoの同じ歌を聞き、限界まで理解を深める試み(「ずっと」を4時間ずっと流した)をするなど、「aikoを極める」みたいな状態にいってしまった。
また、聞くだけでは不足と感じ、「aiko論」というaikoの歌を批評した論を周囲の人や、自分の運営する家庭教師団体の生徒たちに語ることもした(2014年夏のこと)。
これはaikoを布教する説法のつもりだったが、結果的に生徒からは、「アーティストにこんなにアツくなる人がこの世にいるんだ」「突き詰めすぎてて困惑」などの感想を頂いた。
実のところ昨今、aikoの創作があまり上手くいっていない状況がある(新曲があまり出せない、出てもあまりヒットしない)。
aiko自身もおそらく先行き不透明感を感じているであろう状況下で、フリークス的な楽しみ方をしてる自分はどう向き合えば良いのかと困惑していた。
意味が分からないかも知れないが、「aikoを卒業すべき時なのでは?」というペシミスティックな考えが出たりもしてきていた。
いずれにせよaikoがアーティストとして生まれ変わる時が来ているのは間違いない。そこで自分もファンとして次の段階へいく準備をしたいと思う。
そこでまずは、喋りっぱなしだった「aiko論」を再考し、文章化しようと思う。
これが「aiko論 リターンズ」のはじまりです。
2.aiko、ブラウン管の中で歌い、飛び跳ねる!
そこで 本項「余は如何にしてaiko信徒となりし乎」は、「aiko論リターンズ」に先駆けて、僕がaikoを知り、ハマってしまうまでのいきさつを述べるものです。
aikoを最初に見て衝撃を受けたところから、論に至るまでの動機を記しておきたいと思います。
僕がaikoの歌を初めてちゃんと聞いたのは、2013年の12月31日。
日付を見て頂ければわかる通り、大晦日。すなわち紅白歌合戦の日だ(CDTVを観る文化は当時の自分にはなかった。aikoを知った翌年からCDTVも観るようになった)。
その時の僕は例年同様、「ながら」で紅白を観ていた。
僕は毎年大晦日は紅白を観る派なのだが、そうはいってもやはり紅白は食事や会話をしながらでも見れるものだから、そんなに集中して見ない。
いろんな歌手が出ては去っていくのを横目で見ていると、ちょうど「Loveletter」のサビ終わりぐらいでaikoが歌ってるのを見た。
恥ずかしながら20年以上生きてきて、僕はaikoの歌をちゃんと聞いたことはなかったのだった。このときも偶然aikoの出番をテレビで目撃したのだが、aikoの歌番組に出る頻度を考えれば、いつか来る偶然がこの時に来た。
僕は初めてじっくりとaikoを見た。aikoはテレビ画面の中でぐるぐる回転したり、足を蹴り上げたりしていた。
好きな人はわかると思うのだが、aikoは間奏やサビ終わり、アウトロとかで、飛んだり跳ねたり、回転したり、足を蹴り上げたり等の動きをする。
とりわけ「Loveletter」はaikoの中ではロック寄りの歌で、その様な動きが多かった。
aikoが歌い、飛び跳ねている間、自然と僕は「ながら」見でなくなって、しばらく画面に釘付けになっていた。
aikoの歌が終わると、僕は衝撃を受けていた。
というのも、aikoの存在自体は10年以上前から知っていたのである。それこそ中学生頃からずっと売れている歌手だ。
しかし当時の僕はaikoに対してこれといった印象がなく、歌の上手いサブカルアイドル系の歌手なのか?ぐらいに思っていた。その日、紅白で見たaikoは、僕のそんなお粗末なイメージを完璧に破壊してくれた。
3.身体の延長としての曲
まず、aikoは 歌が上手いだけではなかった。
自分で作曲もしていて、曲調はキャッチーで王道っぽいんだけどどこか個性的で、類似が思い浮かばない。
aikoは音楽理論とか王道のコード進行とか勉強せずに、デビュー前からずっと勘で曲作りしているという。
その「勘」の根源と思われるのが、曲を作ってる時の気分とか身体感覚みたいなものだと僕は推測している。
というのも、aiko的に調子が良い時期に作ったと思われる曲はハイテンポでテンションが高く、落ち込んでたと思われる時期に作った曲は、テンポが遅く暗いものが多い。
aikoの曲はまるで、自分の身体から湧いてくるビートを音に変換してみると曲になりました、という感じだ。身体性が曲に出ていて、これが大変気持ちがいいのだ。
aikoの音楽を聴くことは、aikoの拍動や身体感覚に身を委ね、共感するようなものなのだ。
僕含めaikoのファンが、aikoを眺めるというよりむしろaikoの気持ちになってしまっている人が多いように感じるのは、この作曲の要因が大きいのではと思っている。曲を通じてaikoの気分を追体験できてしまうから、まるでaikoのことを自分のように思えるのだ。
4.「あたし」と「あなた」
また、 歌詞も特徴的だ。
たとえば「Loveletter」はロック調でaikoの中でもカッコいい系統なのだが、その中でも一番盛り上がるサビの歌詞が
何度も何度も何度も読み返そうか
だけどそんなに読んだらあなたは嫌かな
何度も
体に入ってくる言葉が苦しい
AIKO「Loveletter」より
である。歌詞が内省的かつ後ろめたく、普通に考えると曲調と合ってない。
さらに、個人的な感想に寄りすぎてもいて、視聴者に共感させるという「売れ筋」の基本から外れてるようにも思う。
しかしながら、実際に聞いてみると、この歌詞がハマっているのだ。
そもそも、aikoはどんな曲調であっても歌詞は基本的に同じパターンしか書かない。
1人称の「あたし」、自分の経験を題材、「あなた」に対する恋愛歌
これだけだ。
オリジナル曲が100はくだらなくあるはずだが、本当にどれもこの型に準じている(たまに例外もある)。これで20年売れ続けているのは、もはや異様だ。
野球に例えれば、ストレートしか投げられないのに、20年間最多勝争いしている投手みたいなものだ。強すぎる。
一見暗い歌詞ではあるのだが、それが1人称の「あたし」の本当の感覚である以上、むしろ正解なのだ。それを自分の身体感覚から湧き出てくるメロディにのせた時、aikoの世界が立ち上がるのだ。
このようにして、aikoの楽曲はあべこべでも不思議な調和が生まれる。他には真似できない独特の雰囲気であり、一度聴いたら耳に残るゆえんでもあると思われる。
4.「動物的きらめき」
紅白でaikoが僕を魅了したのは歌だけではない。
飛んで跳ねての動きも印象的だった。
自分の身体由来の曲に合わせて踊り、自分の身体の拍動を上げていく。
このエネルギー状態は尋常でないものがあり、強いて例えれば南の島の異国で行われる夜祭りで踊ってる島民のような生命の高まりを感じさせる。
aikoが歌って踊るのを目の当たりにするとそのエネルギーに捉えられ、目を背けられないのだ。
※身体、身体と繰り返してしまったため、aikoは身体性だけで音楽をやってて理智がないように伝わってしまうかもしれない。そうだとしたら誤解であり、aikoは卓越した比喩の使い手だ。平安時代の歌人みたいだ。比喩によって、自分の個人的かつ日常的な話題を歌に昇華している。ただしインテリ系っぽい難解な言葉遣いはできず、平易で親しみやすい言い回しをするので見逃されがちだとは思う。詳しくはaiko論の本論で。
5.そして「aiko論」へ
さて、初めてaikoを見た時の衝撃の感想を、曲、歌詞、動きから説明した。
まとめると「こんなすごいとは思わなかった」という感じだ。
そして、すごいだけでなく、曲のところで述べたように、aikoの感覚に共感して曲に乗って楽しんでいる自分がいたのだった。
これはもっと聞かねば、と思いファーストアルバムから順々に聞いていったのだ。レンタル店で借りて聞ける曲は、おそらくすべて聞いた。聞けば聞くほど、aikoの卓越した作詞センスや曲調に驚いた。
ただし、aikoデビュー時から順々に聞くにつけて、自分の中で引っかかるところがあった。aikoの作風みたいなものが、キッパリと分かれる時期があるのだ。当時、2014年初め頃には、aikoの創作史を3つの時期に分けられるような気がした。
aiko論はaikoの楽曲をこの3つの時期に分けて批評しながら、aikoの感覚にせまるというものだ。aikoの醍醐味はやはり、歌自体を楽しむだけでなく、歌を通してaikoの感覚を知ることにもあると感じている。
その楽しみ方の前置きとして、以上の前文を書いたと言って過言でないと思う。
さて、前置きはこれぐらいにして、aiko論リターンズを書き始めようと思う。
一曲一曲、聞きなおしていくつもりだ。がんばるぞ!