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あいみょん「瞬間的シックスセンス」感想

 

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数年ぶりにアルバムを購入

新年一発目のブログで、シンガーソングライターのあいみょんにドはまりしたことを書いた。

 

skypehelvete.hatenablog.jp

 

そして、来る2月にあいみょんの新譜がリリースされたので感想を書きたいと思う。

 アルバムのタイトルは「瞬間的シックスセンス」。彼女の曲作りに対する姿勢がわかる秀逸なタイトルだ。彼女の製作過程は、部屋でギターをかき鳴らしながら、作詞作曲を同時に進めているらしい。がちがちにコンセプトを固めたというよりも、その瞬間瞬間できた佳作が並べられているアルバム。紅白にも出てある程度売れたことにより、尊敬する先人たちと同じ土俵に立てた喜びや、自分の好きな曲を作ることが純粋に楽しい時期なんだなと率直に感じる。

 しかし、次のアルバムに向けどのように彼女のフェーズが変わっていくのか、なんとなく、息詰まるような印象も受けた。その正体は何か。自分の中で考察してみた。

 

 前回のブログでは、男性目線の歌詞を書くことで、等身大の自分からの脱却に成功している旨を書いた。今作はこの傾向が顕著に現出している。ここでは、アルバム内で明らかに男性目線の歌詞の曲にスポットを当てたい。

 (女性目線の曲は素直な感じで、やはりいい!)

 

「抱く」ことの刹那なのマチズモと、自信のなさ

 今作は1、2曲目がシングルカット(満月の夜なら 、マリーゴールド)で始まる。どちらも男性目線の歌詞をキャッチ―なメロディーで歌い上げている。

「満月の夜なら」は、多くの人が指摘している通り、明らかに性行為が暗示された歌詞だ。

横たわる君の頬には
あどけないピンクと更には
白い 深い やばい
神秘の香り

もしも 今僕が
君に触れたなら
きっと止められない最後まで

 

 官能小説を読むのが好きだというあいみょんらしい言葉で綴られる。細かい分析は、多くのブロガーが書いているのでここでは割愛するが、なんとも、女をリードする(リードしたい)男性像が見て取れる。

 


あいみょん - 満月の夜なら 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

 そして、前回のブログでも言及した「マリーゴールド」。

「もう離れないで」と 泣きそうな目で見つめる君を 雲のような優しさでそっとぎゅっと抱きしめて離さない

 とあるように、泣きそうな女性を、男が優しさで包み込むといった保守的な恋愛像に準拠した歌詞に仕上がっている。

 官能的な「満月の夜には」、プラトニックな「マリーゴールド」。そのどちらも、歌詞は男性優位な立ち位置から綴られている。

 

 しかし、他の曲に目を当てると、男性の目線の歌詞には、男性の劣等感のようなものが見え隠れしている。

 

愛しい人のためなら
なんでもできるつもりさ
ただそれは
君がとなりにいてくれた
ら、の話だから。
こんな歌気持ちが悪いだけだから
ああ 余裕を持って人を
好きになれる人ってこの世にいるのかな

「ら、のはなし」。

 また、

  

  

大切な人も恋も愛も
性も、どうしよう
いつまでたっても守りきれないよ
いつかは消えてしまう

 「あした世界が終るとしても」のように自信なさげな、男性が登場するのは興味深い。ただ、両曲とも映画「あした世界が終るとしても」の挿入歌、主題歌となっており、タイアップありきの歌詞づくりの結果とも言えるかもしれない。映画未視聴のため、何とも言えないが、歌詞のベクトルは先ほどの2曲とはあきらかに違い、内省的で自信なさげだ。

 「夢追いベンガル」でも、

 

裏切ったはずのあいつが笑ってて
裏切られた自分がこんなに不幸だ
ああ なんて 無様で皮肉なんだ
セックスばっかのお前らなんかより
愛情求め生きてきてんのに
ああ 今日も愛されない

と、嘆いたりする。曲調は00年代前半に流行した青春パンクにありそうだ。リア充への嫉妬の一方で、「走る」(=ロックしている)自分を鼓舞し、肯定していく展開は、峯田和伸的である。そもそも、タイトル自体がandymoriベンガルトラとウィスキー」のオマージュなのは言うまでもない。

 


あいみょん - 夢追いベンガル【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

 もちろん、女性であるあいみょんの男性目線は、フィクションであることは自明だ。特に歌詞に統一性がないことを指摘するのは野暮ったい。しかし、この楽曲群を聴いていて、この自信のない男性像の現れ方が気になってしまった。

 この男性像こそ、あいみょんが今後、ぶち当たるであろう壁な気がしてならない。女性であるあいみょんは決して男性性を獲得できないからである。

 

 

 あいみょんはインタビューなどで、音楽的原体験を問われると、音楽関係の仕事をしていた父親の部屋にあった音源を聴き漁ったことを語る。影響を受けたアーティストに浜田省吾吉田拓郎小沢健二スピッツと言った男性アーティストを挙げる。彼女の世代からすると世代的にそれらをデータベースとしてしか消費できていない。70年代、80年代、90年代の音楽は彼女から見れば時代性が脱構築されフラットなものとして受け止められいるのではないか。

 たとえば、歌詞面で時代性を無視したフラットさが表れているのが、初期のアルバムに収録されている。以下の曲。「象が踏んでも壊れない」、「チョベリバ」、「キボンヌ」を同じ曲中で同居させることにためらいがないのは、あいみょんが実際にこの時代を知らないからである。

 曲調に関しても同様な精神で向き合っている気がする。だからこそ24歳でありながら、古い音楽ファンを虜にしてしまうという現象が起こっているのではないか。「いい意味で●●を彷彿させる」という彼女への評は多い。

 


あいみょん「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」

 あるインタビューでスピッツの影響を聞かれ、「悔しいけれど、あるんですよね」と言った趣旨の言葉を返していたのが印象的だった。多少、理論が飛躍するが、身体的にも時代的にも決して、みずからが尊敬する男性アーティスト群に仲間入りできない劣等感が「男性目線」の歌詞に現れているような気がしてならない。「抱く」こと刹那の中にマチズモを見るも、ふと自らを省みれば、けっして父になれない劣等感に苛まれている。そんな印象をアルバム全体を通して感じた。

 吉田拓郎は『今日まで明日から』で「私は今日まで生きてみました」と疑問なく歌える。一方、あいみょんは「今日も生きているのです」(あした世界が終るとしても)と卑屈さを秘めた言い回しになる。両者には圧倒的に差がある。

 あいみょんは、成長過程。いまはひたすら、過去のデータベースと戯れながら楽曲を模索している気がする。次のアルバムまでの期間、何を吸収し曲や歌詞がどう変化のか楽しみだ。

 そして、過去のデータベースと戯れることが、もっとも得意なのは個人的には秋元康なんだと思う。次回はそこまで、詳しいわけではないがアイドル論に挑戦したいと思う。

 

 

                                                      小澤直樹