インターネット家庭教師集団ヘルベテのブログ

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第1回 NPO法人インターネット家庭教師集団ヘルベテ講演会 書き起こし

テーマ  「あなたにとって『学ぶ』とは?」

NPO法人インターネット家庭教師集団ヘルベテ主催 

2018年3月10日 

群馬県高崎市 cafeあすなろ

 

〈司会&ファシリテーター

茂木草介代表理事 
<パネラー>
NPO法人ターサ・エデュケーション理事長 市村均光 氏
・たむろ荘代表 本田美咲 氏
早稲田大学 教育学部 教育学科3年 阿部友樹 氏(元ヘルベテ生徒&教師)

 


開会にあたり理事長挨拶 (小澤直樹):本日はお集まりいただきありがとうございます。さて、当団体にとって初めての講演会事業。テーマが学ぶということで、私も少し考えてみました。私は普段、記者をしているのですが、ある日、そば屋を取材していたところ、(もりそばの)汁のつけ方を教わったんです。その店員が言うには「江戸前は味が濃いので、汁には麺の一部分をつける。うちの店は長野県安曇野風なので、麺を汁にどっぷりとつけるのが作法なんだよ」と。私はそれまで、そばの食べ方なんてあまり意識したことはなかったので一つ学びました。昨今はグーグルで検索するば大概の事は調べられる時世です。しかし、グーグル検索は自分が関心のあるキーワードしか検索窓に打ち込めない。そう考えると、学びは見知らぬ他者が与えてくれるものなのかなと思います。こうした些細な学びの経験がより人生を豊かにするような気がします。今日お集まりくださった皆さま。パネルディスカッションの後には、各テーブルごとでの意見交換のパートも設けています。どうかこの会を通して、他者からの新しい視点を少しでも獲得して帰っていただければと思います。それでは、お楽しみ下さい。

 

茂木:いやぁ、小澤さん校長先生化してますね~(開場:笑)。それでは、早速、本日議論していただくパネラーの3名から自己紹介をよろしくお願いしたいと思います。(簡単な自己紹介と、最近困っていることという題が課される)


阿部:24歳、ちょっと遅めの大学3年生をやってます阿部です。出身は群馬県で、今は東京都の小金井市に住んでいます。学生として学業に加え、就職活動、インターン、アルバイトなどをしています。大学1年時は教師活動などでヘルベテに深く関わらせていただきました。サークル活動では、更生保護に関する活動に関わっていました。更生保護活動では非行少年たちと遊ぶなどしていました。現在はサークルを引退し、教育系の会社でインターンをしています。趣味はアニメとか音楽とかサブカルが好きです。これがあれば生きていけるんじゃないかとも思います。
 振り返ると、僕はまっとうな生活をしてこなかったので社会的に評価される部分とされない部分があります。その狭間で最近は悩むことが多いです。よろしくお願いします。

 

本田群馬県玉村町で「たむろ壮」というシェアハウス兼フリースペースのようなところを運営しています、本田美咲と申します。年齢は23歳です。出身は長野県です。普段はたむろ壮の店番をしたり、畑仕事に精を出したりしています。大学3年の時にたむろ壮になる物件を購入し修繕していました。フローリングを貼ったり、壁紙をはがしたりと大工のようなことをしていた生活でした。大学は群馬県立女子大の美術史学科で「アートマネージメント」を専攻していました。その学科ではアートとまちづくりの関係性を考えるといったような授業が多く、地元の玉村町に行き、イベントを企画し、参加するといった4年間を過ごしました。
 最近、知り合いのものまねをしたいなと思い、人の口癖とかをよく聞くようにしています。困っていることはあまりないんですが、物忘れがひどいくなってきたかなぁ…と、(開場:笑)。
 ヘルベテは茂木副代表がたむろ壮に遊びに来てくれたのをきっかけに関心を持ちました。今日は楽しみです。よろしくお願いします。

 

市村NPO法人ターサエデュケーションの代表を努めています。普段は市役所職員をしています。また、NPOでは、児童養護施設の子ども達の学習支援や、前橋市不登校児のフリースクールを運営しています。僕は目下、10歳と7歳の子どもの子育て中。また、PTA連合会の役員もしています。困っていることはそういった日々の活動の時間管理ですかね。28歳から子どもに関わる活動を始めたのですけれども、学生時代から教育に関心があったかと言えばそうではなく、アルバイトと麻雀三昧の学生だったわけです。けれども、学生時代に子どもができそれを機に結婚をしました。そういった困難を乗り越えて今の僕があります。
 最近はボランティアの学生と関わる機会も多いです。今の学生はアニメが好きなんですね。僕は昨日、コードギアス(※サンライズ制作のオリジナルロボットアニメシリーズ・06~)を半年間かけて全50話を観終わりました。もし会場に知っている方がいらしたらその話で盛り上がりたいなと思います。今日はよろしくお願いします。

 

茂木:群馬に住んでいる方なら市村さんの名前は何処かで見ているというぐらい、いろいろな活動をされてて、見習わなくてはと感じている次第です。ちなみに僕はコードギアスは2日で観終わりました(会場:笑)。忙しさが対極だなと感じるんですけれども(笑)。(作中の一つのテーマである)組織の中から変革していくのか、外から変革していくのかというのはヘルベテにも通じる課題だと思うので、いろいろお話しをお願いします。
 では、ディスカッションに進ませて頂こうと思います。率直なことをお聞かせください。では、①「あなたは普段どんな時に学びを得ていますか?」ですがどう思いますか?
聞いておいて、自分の意見を言わないのもなんなので、少しコメントします。学びとか勉強というとたくさん本を読むとか、知らない情報をインターネットで調べるとか、英会話の勉強をするとかが挙がると思うのですけれども、僕はそんなにしていなくて、最近は読書量も減ってしまっています。しっかり読みたいなと思うところではあるのですけれども。それでも、やはり学びを感じるなと思うことがあって、例えば、みなさん10年程前に流行った「ミクシィ(※ソーシャル・ネットワーキング・サービス のひとつ)」って知ってますか?あれって、フェイスブックツイッターと違って純然たる日記サービス型のSNSなんですよね。最近、本田さんから「ミクシィで改めて日記を書いてみるといいんだよ」と言われて、書き始めたんですけど。自分の日記をつけると、人生変わるぐらい、日々がいい感じになっていると実感するんです。自分の生活を改めてみるって学びなんだなと思っています。本田さんとマイミク(ミクシィ上での友達のこと)なんですけど、本田さんの日記を見ると「あ、本田さんこんなこと考えて、こんなことしてるんだ」ってのも学びになるんですね。学びってのは単に言葉の選び方なのかもしれないですけど、それが生活を豊かにしてくれる実感がありますね。生活の中で少し自己や他者に意識を向けることで、学びがあるというか…。僕からはそんな感じですがパネラーの皆さんはどうでしょうか?

 

阿部:全体的には今、茂木さんが言ったことと、小澤さんがあいさつで言ったことと同じですね。小澤さんがしゃべった時に話したいこと、めっちゃ言われてしまったと思ったんですけど(笑)。
 僕は(不登校経験があり)学校で学ぶような勉強はそんなにしてこなかった人間なんですね。がっつり勉強をしたのは浪人時代の1年半ぐらいです。しかし、普段、いろいろなところに学びがあると思っていて、例えば、(目の前の机を指す)この、机がどんな素材でできているのか知らないんですが、それを知るのもまた学びかなと思っていて、要するに自分がどこに焦点を当てるのか。それで学びは変わるのかなと思います。身近な例ですが、今僕のアルバイト先は3分の1がベトナム人なんです。昨日、教えてもらい、ベトナム語で自己紹介ができるようになりました。そんな感じで世の中に学びがあふれていると思います。そして、自分が世の中に対してどういう情報を得たいのかアンテナを張ることによって、学びの質が決まってくると思います。僕は教育、アニメーション、音楽に関心があるので、その情報が入ってきた時に学びを感じますね。
 また、それとは別に、自分では、絶対に気づかない学びがあると思うんですね。さっきの小澤さんの話ではないですけど…。たしかにそばの食べ方って人から言われないと意識しないですよね。僕も就活で言葉遣いがおかしいとか指摘されます。自分が意識してないことは自分では学べないんですね。そういったことに対しては環境を変えたりとか、新しい場所や人と出会うことで、得るものがあるのかなと思います。正直、過去の僕は、そのことを認めたくなかったんですね。「俺は一人で得られるものを得るんだ!それで世界を征服するんだ」みたいな部分があったんです(笑)。けれど、やはりそれだけでは、学びにならないんですね。やはり人と関わることで得られることは多いですね。

 

本田:普段生活する中で、自分が試したときと人の話しをよく聞いたときに学びがあるなと感じることが多いです。試したことは…そうですね、自分がどれだけお酒を飲めるかって飲んでみないとわからないじゃないですか?牛肉を二日連続で食べると体調が悪いとか、自分のことを知るためには試さないと始まらないわけで、いろいろなことを試したときに学んでいるなと個人的には考えています。たむろ壮を運営していると、フローリングってこうやってはるんだとか、普通に女子大生をしていたのでは分からないわけなんです。いろいろ試したから、いろいろ学べるんです。
 人の話をよく聞くと、この人はこんな風に考えているんだとか、この人は自分と違うけどなんでなんだろうとか、考える機会が多くありますね。人の話をよく聞いていると、もちろん、学ぼうと常に意識しているわけではないんですけど、結果としてハートウォーミングだなぁ、感動したなぁと感じた時に、なぜ自分はそう感じるんだろうと考えると、何か学びがある気がしています。

 

市村:さっき阿部さん、小澤さんがおっしゃってた話がピンと来ていて、自分の当たり前だと思ってたことが壊れた時に新しい学びがあるのかなあと感じました。
 僕は常々、結果を出した後に学びは生まれると思っています。それは成功とか失敗に関わらずです。成功すれば「こうすればうまくいく」という学びがあるし、失敗した時にも、「頑張って努力したけど上手くいかなかった」って経験から「あれをやっとけばよかった」ってことがあると思うんですよ。そういった時に私の中では学びがあると思います。結果を出すため必要なのは、新しいことに挑戦すること、努力することだと思っています。僕も28歳から現在のNPO法人をやっていて、僕も阿部さんのように、孤立を好むというか、独りよがりの人間だったんですけれども、実際に人を巻き込んだり関わる中で新しいことや必要なことがどうしても出てきて、そこに本当に苦労して、悩んでいます。そこで、諦めずに踏ん張り、やりたいことのために乗り越えると、何か新しい学びと言いますか自分の中で落ちてくるものがあると思います。
 わかりやすい学びというと、読書が学びにつながると思っているのですけれども、ただ、やみくもに読むとあまり効果がないと思っています。たとえば、10年前に読んだ本が今読むとすっと入って来たりする経験があります。本を読むタイミングもすごく大事だと思います。アンテナが立っている時に入ってくるんですね。つまり、いろいろなことに触れておくことが大事で、その触れておいたものが、ある時に自分の中にすっと入ってくる瞬間がある。それが学びだと思っています。

 

茂木:ありがとうございました。何か各パネラーから他のパネラーに意見や質問はありますか?

阿部:僕は学業的な学び(例えば学校で習う算数国語理科社会といった教科・科目的な学び)はあまりしなかったのですけれど、普段の学びの中で、学業的な学びの大事さや比率を数値的に表すとすると、それってどれぐらい大事なものになりますかね?

 

市村:(数値化するのはなかなか難しいが)学業的な学びも大事だと思っています。なぜかというと、今の社会の構造的にそれらが必要な事実があるから大事だと思っているだけなんですね。例えばヘルベテさんの家庭教師だって学業的な学びがなければできないわけです。僕自身も学習に関して時間を費やした経験はあまりないのですけど、学習は目的があった時に使える手段かなと思います。その人のステージや場所によって変わってきてしまうことなのかな。今現在、僕自身が数学できるようになったり、現代文ができるようになったりすることは僕の中でのウェイトは大きくない。けれども、僕の関わっている子どもたちのことを考えると、文字が読めなかったり、計算が出来なかったりすると、自分で参考書を読んで勉強することがそもそもできないので、基礎学力を定着させることは重要なんじゃないかと思っています。

 

茂木:僕も意見を挟みますが、阿部くんは中学校ぐらいから不登校だったんですよね。彼は「18歳ぐらいの時、中卒でも生きていけるやり方ってないか」と考えていたそうなんです。そして、過去に「中卒でも生きていける術を学ぶために大学の教育学部に行って学ぶんだ」と話してくれたことがありました。それが印象に残っていて、その問題意識って共感するところがあります。阿部くんは昔も今も阿部くんなんですが、やはり、これが基本だよ!みたいなこと、例えば足し算や、日本のおおざっぱな歴史とか、それがわかってないと自分らしさを出す俎上に立てないような気がしています。僕なりの解釈ですがその俎上がないことに当時の阿部くんは苦しんでいたところがあるんじゃないかなと推察しています。その問題っていうのは、多かれ少なかれ、ヘルベテに来ている高校生にも当てはまるところがあって、ちょっと俎上がありさえすれば、この子はすごいのにって思うことが多いです。学校ではひとりひとりを見れずに、この子は「だいたいこんなものだろう」って当てはめられて、子ども自身が「大人がそういうんなら自分はそうなんだろう」って思いって、そのまま学校生活を終えてしまうって子が多くて、もったいないなと感じます。基礎学力や教科的な学びは手段なのかもしれないですが俎上に上るためには絶対に必要なものなのかなと思いますね。言い過ぎたかもですね。本田さんは率直にどうですか?

 

本田:なるほど、と思うことばかりです。自分も受験勉強や高校大学の勉強で救われたなと思うことが多いので、何パーセントが重要なのかとか考えたことがなくて、そういう風に思う人もいるんだなぁと思いました。

 

茂木:大学で美術を専攻したということですが何か、大学で学んで変わったこととか成長したことってありますか?

 

本田:高校の時は西洋美術について学びたいと思ったんですけど、大学に入ってから興味がなくなっちゃったんですよ。アートマネージメントとかヘンテコな分野を専攻していたんですけど、それは良かったなと。「西洋絵画なんて」って言ったら失礼ですけど、普通に専門書とか読めば学べることって多いんですよね。そういうところじゃないところに興味が向いたのは、数学やら高校時代の勉強の積み重ねがあったからだと実感していて、勉強しといて良かったなと思っています。

 

茂木:聞いていて古代ギリシャの哲学者、プラトンの話を思い出しました。プラトンの下には、多くの哲学をやりたい人が訪ねてくるんです、しかし結局、哲学はやってみないと分からない。やってみて初めて哲学というものがわかるから、みんながみんな期待したものがあるわけじゃないぞ、という場面がある。ざっくりいうとそんな内容なんです。やってみることがすごく大事なのかなと。では時間なので、ここで会場から質問はありますか?

 

会場から質問(T氏):市村さんから、そもそも字を読んだりとか、計算をしたりすることができないとその先にある学びにたどり着きようがないといった話があったかと思います。その中で「学習」という言葉が出てきました。しかし、今日のテーマは「学び」ではないですか。「学び」と「学習」って意味が被っているようで私たちは無意識に使い分けているのですけれども、その違いはどこにあるのでしょうか。

 

市村:難しいですね…。(しばらく考えて)。学びというと先ほどから議論で出ているとおり、「前提が壊れる」といったニュアンスがしっくり来ています。一方で「学習」というと、俎上を作るためのものかなと思います。おそらく、いろいろな人と会うことで得られるものってあるんですね。しかし、そのときに自分の中に情報や知識が積み重なってないと気付けないものも絶対あると思っていて、積み重ねたものが学習に当たるのかなと思います。

 

T氏:そうですね。学び、学習とも全く別のものではないと思います。俎上がないと先に進みようがないとも思います。ただ、今の議論を聞いていて思ったのは、ヘルベテに来るような高校生たちに、同じ質問をしたらどんな答えが返ってくるんだろうなって…。すこし思ってしまって。


市村:私もNPO活動の中で児童施設やフリースクールで学習支援を行っていますが、彼らの場合は学習が何につながっているのかが分かっていないと、動機が持てずに学習意欲につながらないんですね。目的設定を作る意味でイベントや就業体験を企画しています。

    僕たちは子どもたちに自立のための機会を提供しているので、学びというよりも、学びを得られるようにするための学習を提供しているといった感じですかね。

 

T氏:(市村さんが見ている子どもさんが)「学び」を感じることがあるとすれば、それは学習したことが就業体験を通じて腑に落ちた瞬間なのかなと感じました。

 

市村:そうですね。目的がないとリタイヤしてしまう子が多いのが現状ですね。

 

茂木:残り10分ぐらいですね。次で最後にしましょう。「今までの人生で1番の学びは何ですか」というテーマに移りましょう。時間もないので意見を表明するだけになりそうですが。

 

阿部:僕は自分がどう思っているのかを大事にしているタイプ。自分が何に興味があるとか、自分がどういうことやったら嬉しいのか、逆に嫌なのか、そういったことに生活の中で気づいたときでしょうかね。それによって自分のやるべきことがはっきり見えてきて、1人で動けるようになります。また、僕は1年半がっつり、浪人生活を送りました。受験勉強で得た知識はかなり僕の中で基盤になっていて、大きな学びになっていたなと思います。

 

本田:答えにならないかもしれないんですけど、パネラー同士の話を聞いていて、知識の話をしているなと思うことが多かった。でも、自分が学びたいのは知識でなく知恵だなと考えています。では、人生で一番の学びは何かを考えると、日々の中でいろいろな知恵を学ぶことが多いので選べませんというのが、正直なところです。

 

市村:話していると、学びって、気づきの感覚に近いなというのが、僕の中で湧いてきました。そう考えると、僕のいちばんの学びはやはり気づきなんじゃないでしょうか。気づきから学ぶということがあると思うんですね。僕は母子家庭で育ったんです。自分は世界の中でいちばん不幸な人間なんだと思って生きていた時期もありました。しかし、役場に就職して児童福祉の部署に配属になったんですね。そこで、母子家庭の方々と面談して手当を支給する業務に就いていたんです。その時、母子家庭がものすごく苦しい状況にあるんだなぁと気づいたんですね。僕も母子家庭でしたが、学習機会があったり、余暇を楽しめたりする余裕はあった。業務の中で、母子家庭の現状に気づけたことで、母子家庭の現状を学びたいと思えたことが、今のNPO活動につながっている。僕の中で学びとは、気づきから生まれるのではと、今、思いました。

 

茂木:僕から意見を言わせていただくのも恐縮ですが、僕としては、この歳(30歳)になると経験から得るものの良さを感じることがあります。といっても、なんとなくの経験と、徹底した経験の間に大きな質の違いがある気がしていまして、本当の経験から得るものを大事にしなければいけないなとの思いが強いですね。同じ時間でも、ちゃんと自分の中に入ってくる経験をする機会がほしいというか。

 

市村:先駆者から「こうした方がいいよ」と言われることって多いんですよ。頭の中では分かるんですが、自分の中で落ちてないんで本当はわからないんですよね。でも、その人の言うフェーズまでたどり着くと、落ちて来ることがあるんですね。茂木さんの言っていることにピンときていますね。

 

茂木:そろそろ時間なので、これにて第一部のディスカッションは終了にいたします。この後の第2部では参加者の皆さん、各テーブルで議論をしてくれればと思います。

 

会場:拍手

 

     ~第2部ではパネルディスカッションを受けて、参加者での活発な意見交換が行われました~

 

閉会のあいさつ(秋山直樹理事):「学び」とは何かという議題は、非常に難しいなと思いながら自分でも考えていたんですけれども、お話をいろいろ聞いて、代表の小澤も、パネルディスカッションのパネラーの皆様も話していたのですが、やはり「他者から気づかされる学び」というものが多分にあるなと今日、再認識しました。パネルディスカッションでは「気づき」と「学び」、「知識」と「知恵」、面白いキーワードが出たなと思っています。自分でも考えてみたのですが、「知恵」は知るに恵、恵みを知ること、多分この言葉を作った人は、きっと実践的なことを想定してこの漢字の組み合わせをしたんでしょうね。対して「識」は仏教用語らしいのですが、「物事が分かれていることを知る」といった意味らしいです。それを知覚すること。分別することを知る、識るを知る、これを考えた人は実践的なことというよりは、物事の考え方、自分の頭の中の整理する意味でこの言葉を作ったんだろうな、と。そういった言葉の節々からいろいろ学びを深めることもできましたし、なによりも自分が改めて考え直す場が今日こここで開催され、よかったなと感じています。
我々ヘルベテとしましては、学ぶ場の提供、学習支援を今後も続けていくのですけれども、教育に関しては双方向的なところがあると感じています。我々が学生に対して教えられることもあると思いますし、逆に我々の側も学生の方々から教わることも非常にあると思います。こうした交流の場、日々の授業を通して、我々自身も学ぶ姿勢を崩さずに今後活動していきたいと思いますので、みなさま今後ともよろしくお願いします。

 

会場:拍手

あいみょん「瞬間的シックスセンス」感想

 

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数年ぶりにアルバムを購入

新年一発目のブログで、シンガーソングライターのあいみょんにドはまりしたことを書いた。

 

skypehelvete.hatenablog.jp

 

そして、来る2月にあいみょんの新譜がリリースされたので感想を書きたいと思う。

 アルバムのタイトルは「瞬間的シックスセンス」。彼女の曲作りに対する姿勢がわかる秀逸なタイトルだ。彼女の製作過程は、部屋でギターをかき鳴らしながら、作詞作曲を同時に進めているらしい。がちがちにコンセプトを固めたというよりも、その瞬間瞬間できた佳作が並べられているアルバム。紅白にも出てある程度売れたことにより、尊敬する先人たちと同じ土俵に立てた喜びや、自分の好きな曲を作ることが純粋に楽しい時期なんだなと率直に感じる。

 しかし、次のアルバムに向けどのように彼女のフェーズが変わっていくのか、なんとなく、息詰まるような印象も受けた。その正体は何か。自分の中で考察してみた。

 

 前回のブログでは、男性目線の歌詞を書くことで、等身大の自分からの脱却に成功している旨を書いた。今作はこの傾向が顕著に現出している。ここでは、アルバム内で明らかに男性目線の歌詞の曲にスポットを当てたい。

 (女性目線の曲は素直な感じで、やはりいい!)

 

「抱く」ことの刹那なのマチズモと、自信のなさ

 今作は1、2曲目がシングルカット(満月の夜なら 、マリーゴールド)で始まる。どちらも男性目線の歌詞をキャッチ―なメロディーで歌い上げている。

「満月の夜なら」は、多くの人が指摘している通り、明らかに性行為が暗示された歌詞だ。

横たわる君の頬には
あどけないピンクと更には
白い 深い やばい
神秘の香り

もしも 今僕が
君に触れたなら
きっと止められない最後まで

 

 官能小説を読むのが好きだというあいみょんらしい言葉で綴られる。細かい分析は、多くのブロガーが書いているのでここでは割愛するが、なんとも、女をリードする(リードしたい)男性像が見て取れる。

 


あいみょん - 満月の夜なら 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

 そして、前回のブログでも言及した「マリーゴールド」。

「もう離れないで」と 泣きそうな目で見つめる君を 雲のような優しさでそっとぎゅっと抱きしめて離さない

 とあるように、泣きそうな女性を、男が優しさで包み込むといった保守的な恋愛像に準拠した歌詞に仕上がっている。

 官能的な「満月の夜には」、プラトニックな「マリーゴールド」。そのどちらも、歌詞は男性優位な立ち位置から綴られている。

 

 しかし、他の曲に目を当てると、男性の目線の歌詞には、男性の劣等感のようなものが見え隠れしている。

 

愛しい人のためなら
なんでもできるつもりさ
ただそれは
君がとなりにいてくれた
ら、の話だから。
こんな歌気持ちが悪いだけだから
ああ 余裕を持って人を
好きになれる人ってこの世にいるのかな

「ら、のはなし」。

 また、

  

  

大切な人も恋も愛も
性も、どうしよう
いつまでたっても守りきれないよ
いつかは消えてしまう

 「あした世界が終るとしても」のように自信なさげな、男性が登場するのは興味深い。ただ、両曲とも映画「あした世界が終るとしても」の挿入歌、主題歌となっており、タイアップありきの歌詞づくりの結果とも言えるかもしれない。映画未視聴のため、何とも言えないが、歌詞のベクトルは先ほどの2曲とはあきらかに違い、内省的で自信なさげだ。

 「夢追いベンガル」でも、

 

裏切ったはずのあいつが笑ってて
裏切られた自分がこんなに不幸だ
ああ なんて 無様で皮肉なんだ
セックスばっかのお前らなんかより
愛情求め生きてきてんのに
ああ 今日も愛されない

と、嘆いたりする。曲調は00年代前半に流行した青春パンクにありそうだ。リア充への嫉妬の一方で、「走る」(=ロックしている)自分を鼓舞し、肯定していく展開は、峯田和伸的である。そもそも、タイトル自体がandymoriベンガルトラとウィスキー」のオマージュなのは言うまでもない。

 


あいみょん - 夢追いベンガル【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

 もちろん、女性であるあいみょんの男性目線は、フィクションであることは自明だ。特に歌詞に統一性がないことを指摘するのは野暮ったい。しかし、この楽曲群を聴いていて、この自信のない男性像の現れ方が気になってしまった。

 この男性像こそ、あいみょんが今後、ぶち当たるであろう壁な気がしてならない。女性であるあいみょんは決して男性性を獲得できないからである。

 

 

 あいみょんはインタビューなどで、音楽的原体験を問われると、音楽関係の仕事をしていた父親の部屋にあった音源を聴き漁ったことを語る。影響を受けたアーティストに浜田省吾吉田拓郎小沢健二スピッツと言った男性アーティストを挙げる。彼女の世代からすると世代的にそれらをデータベースとしてしか消費できていない。70年代、80年代、90年代の音楽は彼女から見れば時代性が脱構築されフラットなものとして受け止められいるのではないか。

 たとえば、歌詞面で時代性を無視したフラットさが表れているのが、初期のアルバムに収録されている。以下の曲。「象が踏んでも壊れない」、「チョベリバ」、「キボンヌ」を同じ曲中で同居させることにためらいがないのは、あいみょんが実際にこの時代を知らないからである。

 曲調に関しても同様な精神で向き合っている気がする。だからこそ24歳でありながら、古い音楽ファンを虜にしてしまうという現象が起こっているのではないか。「いい意味で●●を彷彿させる」という彼女への評は多い。

 


あいみょん「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」

 あるインタビューでスピッツの影響を聞かれ、「悔しいけれど、あるんですよね」と言った趣旨の言葉を返していたのが印象的だった。多少、理論が飛躍するが、身体的にも時代的にも決して、みずからが尊敬する男性アーティスト群に仲間入りできない劣等感が「男性目線」の歌詞に現れているような気がしてならない。「抱く」こと刹那の中にマチズモを見るも、ふと自らを省みれば、けっして父になれない劣等感に苛まれている。そんな印象をアルバム全体を通して感じた。

 吉田拓郎は『今日まで明日から』で「私は今日まで生きてみました」と疑問なく歌える。一方、あいみょんは「今日も生きているのです」(あした世界が終るとしても)と卑屈さを秘めた言い回しになる。両者には圧倒的に差がある。

 あいみょんは、成長過程。いまはひたすら、過去のデータベースと戯れながら楽曲を模索している気がする。次のアルバムまでの期間、何を吸収し曲や歌詞がどう変化のか楽しみだ。

 そして、過去のデータベースと戯れることが、もっとも得意なのは個人的には秋元康なんだと思う。次回はそこまで、詳しいわけではないがアイドル論に挑戦したいと思う。

 

 

                                                      小澤直樹

aiko論リターンズ(序)余は如何にしてaiko信徒となりし乎

1.「aiko論」→「aiko論 リターンズ」へ

僕は5年半ぐらい前に歌手のaikoにハマった。TSUTAYAで聞ける曲は全部聞いた。周囲の人には「aiko好き」を公言し、良さを伝えてきた。

 

次第にその「好き」も音楽アーティストが好きで聞いているという域から外れ、一時期は車の長距離移動中に繰り返しaikoの同じ歌を聞き、限界まで理解を深める試み(「ずっと」を4時間ずっと流した)をするなど、「aikoを極める」みたいな状態にいってしまった。

また、聞くだけでは不足と感じ、「aiko論」というaikoの歌を批評した論を周囲の人や、自分の運営する家庭教師団体の生徒たちに語ることもした(2014年夏のこと)。

これはaikoを布教する説法のつもりだったが、結果的に生徒からは、「アーティストにこんなにアツくなる人がこの世にいるんだ」「突き詰めすぎてて困惑」などの感想を頂いた。

 

実のところ昨今、aikoの創作があまり上手くいっていない状況がある(新曲があまり出せない、出てもあまりヒットしない)。

aiko自身もおそらく先行き不透明感を感じているであろう状況下で、フリークス的な楽しみ方をしてる自分はどう向き合えば良いのかと困惑していた。

意味が分からないかも知れないが、「aikoを卒業すべき時なのでは?」というペシミスティックな考えが出たりもしてきていた。

いずれにせよaikoがアーティストとして生まれ変わる時が来ているのは間違いない。そこで自分もファンとして次の段階へいく準備をしたいと思う。

そこでまずは、喋りっぱなしだった「aiko論」を再考し、文章化しようと思う。

これが「aiko論 リターンズ」のはじまりです。

 

2.aiko、ブラウン管の中で歌い、飛び跳ねる!

そこで 本項「余は如何にしてaiko信徒となりし乎」は、「aiko論リターンズ」に先駆けて、僕がaikoを知り、ハマってしまうまでのいきさつを述べるものです。

aikoを最初に見て衝撃を受けたところから、論に至るまでの動機を記しておきたいと思います。

 

僕がaikoの歌を初めてちゃんと聞いたのは、2013年の12月31日。

日付を見て頂ければわかる通り、大晦日。すなわち紅白歌合戦の日だ(CDTVを観る文化は当時の自分にはなかった。aikoを知った翌年からCDTVも観るようになった)。

 

その時の僕は例年同様、「ながら」で紅白を観ていた。

僕は毎年大晦日は紅白を観る派なのだが、そうはいってもやはり紅白は食事や会話をしながらでも見れるものだから、そんなに集中して見ない。

いろんな歌手が出ては去っていくのを横目で見ていると、ちょうど「Loveletter」のサビ終わりぐらいでaikoが歌ってるのを見た。

 

恥ずかしながら20年以上生きてきて、僕はaikoの歌をちゃんと聞いたことはなかったのだった。このときも偶然aikoの出番をテレビで目撃したのだが、aikoの歌番組に出る頻度を考えれば、いつか来る偶然がこの時に来た。

 

僕は初めてじっくりとaikoを見た。aikoはテレビ画面の中でぐるぐる回転したり、足を蹴り上げたりしていた。

好きな人はわかると思うのだが、aikoは間奏やサビ終わり、アウトロとかで、飛んだり跳ねたり、回転したり、足を蹴り上げたり等の動きをする。

とりわけ「Loveletter」はaikoの中ではロック寄りの歌で、その様な動きが多かった。

aikoが歌い、飛び跳ねている間、自然と僕は「ながら」見でなくなって、しばらく画面に釘付けになっていた。

 

aikoの歌が終わると、僕は衝撃を受けていた。

というのも、aikoの存在自体は10年以上前から知っていたのである。それこそ中学生頃からずっと売れている歌手だ。

しかし当時の僕はaikoに対してこれといった印象がなく、歌の上手いサブカルアイドル系の歌手なのか?ぐらいに思っていた。その日、紅白で見たaikoは、僕のそんなお粗末なイメージを完璧に破壊してくれた。

 

3.身体の延長としての曲 

まず、aikoは 歌が上手いだけではなかった。

自分で作曲もしていて、曲調はキャッチーで王道っぽいんだけどどこか個性的で、類似が思い浮かばない。

aiko音楽理論とか王道のコード進行とか勉強せずに、デビュー前からずっと勘で曲作りしているという。

その「勘」の根源と思われるのが、曲を作ってる時の気分とか身体感覚みたいなものだと僕は推測している。

というのも、aiko的に調子が良い時期に作ったと思われる曲はハイテンポでテンションが高く、落ち込んでたと思われる時期に作った曲は、テンポが遅く暗いものが多い。

aikoの曲はまるで、自分の身体から湧いてくるビートを音に変換してみると曲になりました、という感じだ。身体性が曲に出ていて、これが大変気持ちがいいのだ。

aikoの音楽を聴くことは、aikoの拍動や身体感覚に身を委ね、共感するようなものなのだ。

僕含めaikoのファンが、aikoを眺めるというよりむしろaikoの気持ちになってしまっている人が多いように感じるのは、この作曲の要因が大きいのではと思っている。曲を通じてaikoの気分を追体験できてしまうから、まるでaikoのことを自分のように思えるのだ。

 

4.「あたし」と「あなた」

また、 歌詞も特徴的だ。

たとえば「Loveletter」はロック調でaikoの中でもカッコいい系統なのだが、その中でも一番盛り上がるサビの歌詞が

何度も何度も何度も読み返そうか

だけどそんなに読んだらあなたは嫌かな

何度も

体に入ってくる言葉が苦しい

AIKO「Loveletter」より

である。歌詞が内省的かつ後ろめたく、普通に考えると曲調と合ってない。

さらに、個人的な感想に寄りすぎてもいて、視聴者に共感させるという「売れ筋」の基本から外れてるようにも思う。

しかしながら、実際に聞いてみると、この歌詞がハマっているのだ。

 

そもそも、aikoはどんな曲調であっても歌詞は基本的に同じパターンしか書かない。

1人称の「あたし」、自分の経験を題材、「あなた」に対する恋愛歌

これだけだ。

オリジナル曲が100はくだらなくあるはずだが、本当にどれもこの型に準じている(たまに例外もある)。これで20年売れ続けているのは、もはや異様だ。

野球に例えれば、ストレートしか投げられないのに、20年間最多勝争いしている投手みたいなものだ。強すぎる。

 

一見暗い歌詞ではあるのだが、それが1人称の「あたし」の本当の感覚である以上、むしろ正解なのだ。それを自分の身体感覚から湧き出てくるメロディにのせた時、aikoの世界が立ち上がるのだ。

このようにして、aikoの楽曲はあべこべでも不思議な調和が生まれる。他には真似できない独特の雰囲気であり、一度聴いたら耳に残るゆえんでもあると思われる。

 

4.「動物的きらめき」

紅白でaikoが僕を魅了したのは歌だけではない。

飛んで跳ねての動きも印象的だった。

自分の身体由来の曲に合わせて踊り、自分の身体の拍動を上げていく。

このエネルギー状態は尋常でないものがあり、強いて例えれば南の島の異国で行われる夜祭りで踊ってる島民のような生命の高まりを感じさせる。

aikoが歌って踊るのを目の当たりにするとそのエネルギーに捉えられ、目を背けられないのだ。

 

※身体、身体と繰り返してしまったため、aikoは身体性だけで音楽をやってて理智がないように伝わってしまうかもしれない。そうだとしたら誤解であり、aikoは卓越した比喩の使い手だ。平安時代歌人みたいだ。比喩によって、自分の個人的かつ日常的な話題を歌に昇華している。ただしインテリ系っぽい難解な言葉遣いはできず、平易で親しみやすい言い回しをするので見逃されがちだとは思う。詳しくはaiko論の本論で。

 

5.そして「aiko論」へ

さて、初めてaikoを見た時の衝撃の感想を、曲、歌詞、動きから説明した。

まとめると「こんなすごいとは思わなかった」という感じだ。

そして、すごいだけでなく、曲のところで述べたように、aikoの感覚に共感して曲に乗って楽しんでいる自分がいたのだった。

これはもっと聞かねば、と思いファーストアルバムから順々に聞いていったのだ。レンタル店で借りて聞ける曲は、おそらくすべて聞いた。聞けば聞くほど、aikoの卓越した作詞センスや曲調に驚いた。

 

ただし、aikoデビュー時から順々に聞くにつけて、自分の中で引っかかるところがあった。aikoの作風みたいなものが、キッパリと分かれる時期があるのだ。当時、2014年初め頃には、aikoの創作史を3つの時期に分けられるような気がした。

 

aiko論はaikoの楽曲をこの3つの時期に分けて批評しながら、aikoの感覚にせまるというものだ。aikoの醍醐味はやはり、歌自体を楽しむだけでなく、歌を通してaikoの感覚を知ることにもあると感じている。

その楽しみ方の前置きとして、以上の前文を書いたと言って過言でないと思う。

さて、前置きはこれぐらいにして、aiko論リターンズを書き始めようと思う。

一曲一曲、聞きなおしていくつもりだ。がんばるぞ!

 


aiko-『Loveletter』(from Live Blu-ray/DVD『POPS』)

【第1回講演会】のご案内

 大変お世話になっております。ヘルベテ理事の茂木です。  ヘルベテでは今年度の締めくくりとして、3月に講演会を催します。  初の講演会となる今回は、「学校教育と現在のわたし」をテーマに、パネル・ディスカッ ションとグループ・ディスカッションを行う予定です。  ヘルベテには学生から社会人まで、多種多様な方が関わって下さっています。普段であれ ば関わりのない領域・立場の人たちと価値観を交換することで、皆様の「学び」のきっかけ を創れたら幸いです。  堅苦しくなく参加者の方々が語り合える場となればと思っております。  ぜひ、お気軽に足をお運びください。

● 日時:2019/3/10㈰ 14:00~16:30 ● 場所:cafeあすなろ:​ http://cafe-asunaro.com/​ 群馬県高崎市鞘町73 JR高崎駅西口より徒歩5~10分 

● ドリンク代:大人700円、学生500円 ※講演会の参加費用は無料となっています。 ※お申込みの際に、注文されるドリンク2つを併せてお教えください。 (詳しくは下記「参加お申込み」参照)。 ※学生はドリンク代に学割が適用されます。​参加の際は学生証をご持参ください​。 学生証が無い場合は、ドリンク代が700円となります。

● 定員:30名

● 次第【前半】パネル・ディスカッション 【後半】グループ・ディスカッション ● 参加お申込み 【QRコードからのお申込み】 右記のQRコードを読み取って頂き、表示されるお申込み フォームに必要事項をご記入してください。 お申込みを確認後、受付メールをお送り致します。

【メール等によるお申込み】 ①氏名 ②ご連絡先 ③ドリンクの注文(2つ) 以上をご記入の上、下記連絡先へお申込み下さい。 mail) ​ info@tutor-helvete.org ℡) 080-1047-9173(茂木)※口頭でお伝えください。 LINE) odekki
https://goo.gl/forms/TQ0cXPXdfhbxOaKi1
または上記のフォームからお申し込みください。

※お申込み期限は3/1㈮とさせて頂きます。 ※お申込みの際に、ドリンクの注文(2つ)の記入のご協力をお願いしておりま す。種類はコーヒー、紅茶、ココアの3種、それぞれホット・アイスを選べます。 1つ目と2つ目が別の種類でも構いません。 2つ目のドリンクは前半と後半の間ぐらいで来る予定となっています。 ● アクセス 電車の場合:JR高崎から徒歩5~10分で来られます。 お車の場合:お店の近くのコインパーキングにお停め下さい。

 ご不明な点がある際には、上記連絡先までお気軽にお問い合わせください。 皆さまのご参加を心よりお待ち申し上げております。

                            ヘルベテ理事 茂木草介

理事紹介~あいさつにかえて~(茂木理事)

 こんにちは。ヘルベテ理事の茂木草介(もてきそうすけ)です。
 ヘルベテでブログ記事の配信がはじまったということで、生徒や高校生に伝えたいことをあらためて書きたく思います。
 生徒たちに何を伝えたいのかと考えたところ、思い浮かぶのは、健康に生きていって欲しいとか、インフルエンザには十分注意して予防に努めて欲しいとか、上手くいかないことがあっても悲観せず、長い目で見て逞しく生きて行って欲しいということでし。これらが率直な思いです。
 あとは勉強の他に余力があれば、他人に対して「自分はこういうのが好きなんだ!」と表現できる力を養って欲しいですね。

 「自分は〇〇が好きだ」と言う人に対して、なんでそれが好きなの?と聞くと、「そんなことは考えもしなかった」と返答されることが多いと感じます。自分の好きなものって、その人のとても個人的な意見。つまり、主観的なんです。個人的な意見・感想をうまく他人に伝えるのが高校生年代は苦手な印象があります。

 「好きなもの」の理由を自覚しようとすると、自分の好き嫌いの判断基準、つまりは価値観について考えなくてはなりません。その作業はその人の「自分らしさ」を構築することに繋がるんじゃないかと思っています。

 こう言うのは簡単ですが、実際のところ自分が好きなものについて考えること・伝えることってそう簡単ではなく、うまくいかないものだと思います。僕もいろんな場面で難しく感じます。言葉にならない気持ちだってありますしね。
 だからこそ、もっと伝えたい!と思うと言葉を知らなくてはならないことに気づきます。これは読書をしたり勉強したりするきっかけとなると思います。
 また、自分の意見が生じてくると、別の意見を持ってる他者と意見を言い合うこともできるようにもなります。つまり、自分の意見を持つことで、他人の価値観もを知るきっかけも得られると思うのです。そうすると、相乗効果で自分の感受性がどんどん高まり、もっと洗練された「自分」を持てるようになることもあると思います。
そういうわけで、時間のあるときに自分が好きなものについて考えてみたり、誰かと語り合ってみたりすると良いかもしれません。

 

ただしくれぐれも、勉強第一で。

                                  茂木草介

インターネット家庭教師集団ヘルベテ - 新しい学びの場へようこそ

 

理事紹介~あいさつにかえて~(秋山理事)

 はじめまして、NPO法人ヘルベテの理事を務めている秋山です。東京でIT/ゲーム関係の仕事をする傍ら、ヘルベテで経営面やIT関連のツール導入/運用などに携わっています。
あいさつがてら、「高校生へ伝えたいこと、をテーマに一筆したためてくれ」というテーマで執筆するためにパソコンの前に座っているのですが、ほとほと困り果ててしまいました。なにせ僕は高校生のみなさんが日々どのように生きているのかをまるで知らないのです。
 僕が高校生の頃は既に携帯電話こそ普及してましたが、まだスマートフォンはありませんでしたし、流行り廃りを含めて情報のスピードも今ほど早くありませんでした。そのため今の時代に10代を過ごす方々とは状況がいろいろ変わってるのではないかと思います。
 例えば、僕が幼い頃は友人と休日に遊びに行く場合には事前に「待ち合わせ場所と時間」を決めておき、当日は相手が来るまでやきもきしたものです。その後、携帯電話が普及し、待ち合わせ場所や到着時間はすぐに連絡できるようになりました(これは僕も経験しています)。今となっては待ち合わせに間に合う間に合わないに問わず、到着確認のLINEがなかなか既読にならないことを憂うような文化圏もあるようです。便利なことはものすごく増えたでしょうが、それに伴って苦労することも同じくらい増えているのではないでしょうか。
 といっても、僕がみなさんの生活を知らないのと同じように、みなさんも十数年前に10代を過ごしたことがないでしょうから、過去と相対的にどういう楽しさや苦労があるかを挙げるのは難しいですよね。なので高校生のみなさん、機会があればいつか、あなた達が今をどう生きているのか僕に教えてください。知らないから、知りたいのです。どんな便利なことを享受していて、どんな苦労があるのか。どんなことに喜んで、どんなことに憤ったのか。そんな話を僕に教えてください。そうして僕に学びを与えてもらえると嬉しいなと思います。
 改めてこの乱雑な文章を読み返すと僕が高校生のみなさんに伝えたかったことは、「高校生から見た大人にも知らないことはたくさんあって、そして知りたい(学びたい)と考えている」ということだったのかもしれませんね。
 学びに終わりはありません。僕たちヘルベテもインターネットという現代の情報通信技術を通じて学習のサポートをしていますが、その本質は「物理的な距離を超えて人と人が交流し、相互に学びを得るために活動している」ということなのかなと考えています。もしこれを読んでくださったみなさんがヘルベテに興味を持ってくださったら、その時は一緒に学びましょう。僕たちの知っていることをお教えするので、あなたたちの知っていることを僕たちにも教えてもらえたら、きっとお互いに素敵な学びが生まれると信じています。
 最初から堅苦しい投稿になってしまいました。今度は僕の大好きなドラえもんの話でもしようと思います。ではまたお会いする日まで。
                        

 

 

 

 

 

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遊びをせんとや生まれけむ(2)大阪港~上海

  出発日の7月20日、大阪港フェリーターミナルについたのは午前9時ごろでした。
 最初の目的地を上海と決めたのは、別に上海に何か特別な思い入れや興味があるからというわけではありませんでした。私は飛行機をなるべく使いたくなかったため、大阪発〜上海行のフェリーに決めたのでした。空を飛ぶのが怖いということも多少はあったかもしれませんが、それよりも私の心を占めていたのは、距離を五感で感じてみたい、という思いがありました。自分が住んでいる場所から、外国まで、どのくらいの遠さがその間に横たわっているのかを、自身の感覚で理解したかったのです。
  
 新しく見えるのに、どこか薄暗くがらんとした待合室の大きな窓からは、これから乗ろうとしている船の横腹がすぐ近くに見えました。青いタラップに、「蘇州號歡迎您」(蘇州号はあなたを歓迎します)と大きく書かれているのを確かめて、これが自分の乗る船だと思うと、安心するのと同時に、心細いような、憂鬱なような気分になりました。大小二つのバックパックを床におろし、クッションにところどころ穴の空いたベンチに腰掛け、財布、腰巻ベルトを確かめ、パスポートとチケットを確かめても、その気分は過ぎ去りません。いまならまだ引き返せる、どうやってここから逃げ出そうか、とさえ考え出す始末です。まっさらなパスポートをページをめくりながら、「本当にこのまま現実から逃げ出すような旅行に出てしまっていいのだろうか…しかし逃げ出すための旅行から逃げ出した先はどこにたどり着くのだろうか…」などと、行き場のない考えが頭で繰り返されていました。

 
 そのとき、不意に声をかけられました。「あなたも、のる?」柔らかな女性の声でした。振り向くと、濃いサングラスをかけ、長い黒髪を後ろに流した50代くらいに見える女性がいました。口元の微笑みが、美しい皺を描いています。とっさに声が出ず、二、三秒ののちに、
「は、はい」とだけ答えると、
「そう、がんばる、のよ」
そう言ってベンチから立つと、その女性は少し離れたところに立っていた短髪でガッチリと体躯の男性のところへ歩いて行きました。あっけにとられて二人の方を見ていると、やがて流暢な中国語の会話が聞こえてきました。二人は夫婦のようでした。
ふと顔を上げてあたりを見回すと、いつの間にか待合室は随分混み合ってきていて、辺りにはさざめきのような、自分の耳にはわからない異国語に満ちていました。船に乗る前から、ここはもう中国だったのでした。

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 出国審査の列に並び、タラップを昇ってフェリーに乗り込むまではあっという間でした。私のチケットは一番安い雑魚寝部屋のもので、部屋には灰色のカーペットが敷かれている他は、隅に布団や枕や毛布が積んであるだけです。左の壁には丸い窓がはめ込んであって、港の向こう岸に立ち並ぶたくさんのクレーンが見えました。その景色が、かすかに、ゆっくりと上下して見えます。船が波に揺られているのです。
ふと周りを見ると、同室の人々もまた、窓から外をのぞいています。出航を前にして、誰もが少なからずわくわくしているようでした。振り返ると、5歳くらいの男の子が、胸の前に小さなリュックを抱えて立っています。彼も外の景色を見たいのでしょう。場所を譲ると、嬉しそうに駆け寄ってきて、私や他の乗客と同じように一生懸命に外を眺め始めました。
「何が見える?」と私は聞いてみました。
窓から目を離して、男の子は不思議そうな目でこちらを一瞬見つめました。そして、パッと駆け出したかと思うと、通路側の床に早くも布団を敷いて寝ていたお父さんらしき人に飛びつきました。二人の中国語の会話が聞こえてきます。お父さんの大きな体に隠れて、彼がこっそり私の方を伺っているのがわかりました。目があって笑いかけると、またさっと隠れてしまいます。

 船が動き出した後、甲板に上がってそこからの景色を見ながら、井上武士の「海」という歌を思い出していました。

うみにおふねを うかばせて
いってみたいな よそのくに

 船は徐々に速度を上げ、大阪港はみるみるうちに小さくなって行きます。いままさに自分は「よそのくに」へ行こうとしている、もはや引き返せない。逃げ道をいくら考えても無駄なことだ。そう思うと、奇妙なことに、かえってさっきまでの不安が和らいでいくのを感じました。そして、かわりにかすかに愉快な、笑いたくなるような感じがやってきました。私は調子っ外れな「海」を口ずさみながら、真夏の強い日差しと吹き付ける潮風の中、港のあった風景がどんどん小さくなってゆくのをしばらくの間見つめていました。

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