インターネット家庭教師集団ヘルベテ ブログ

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遊びをせんとや生まれけむ(2)大阪港~上海

  出発日の7月20日、大阪港フェリーターミナルについたのは午前9時ごろでした。
 最初の目的地を上海と決めたのは、別に上海に何か特別な思い入れや興味があるからというわけではありませんでした。私は飛行機をなるべく使いたくなかったため、大阪発〜上海行のフェリーに決めたのでした。空を飛ぶのが怖いということも多少はあったかもしれませんが、それよりも私の心を占めていたのは、距離を五感で感じてみたい、という思いがありました。自分が住んでいる場所から、外国まで、どのくらいの遠さがその間に横たわっているのかを、自身の感覚で理解したかったのです。
  
 新しく見えるのに、どこか薄暗くがらんとした待合室の大きな窓からは、これから乗ろうとしている船の横腹がすぐ近くに見えました。青いタラップに、「蘇州號歡迎您」(蘇州号はあなたを歓迎します)と大きく書かれているのを確かめて、これが自分の乗る船だと思うと、安心するのと同時に、心細いような、憂鬱なような気分になりました。大小二つのバックパックを床におろし、クッションにところどころ穴の空いたベンチに腰掛け、財布、腰巻ベルトを確かめ、パスポートとチケットを確かめても、その気分は過ぎ去りません。いまならまだ引き返せる、どうやってここから逃げ出そうか、とさえ考え出す始末です。まっさらなパスポートをページをめくりながら、「本当にこのまま現実から逃げ出すような旅行に出てしまっていいのだろうか…しかし逃げ出すための旅行から逃げ出した先はどこにたどり着くのだろうか…」などと、行き場のない考えが頭で繰り返されていました。

 
 そのとき、不意に声をかけられました。「あなたも、のる?」柔らかな女性の声でした。振り向くと、濃いサングラスをかけ、長い黒髪を後ろに流した50代くらいに見える女性がいました。口元の微笑みが、美しい皺を描いています。とっさに声が出ず、二、三秒ののちに、
「は、はい」とだけ答えると、
「そう、がんばる、のよ」
そう言ってベンチから立つと、その女性は少し離れたところに立っていた短髪でガッチリと体躯の男性のところへ歩いて行きました。あっけにとられて二人の方を見ていると、やがて流暢な中国語の会話が聞こえてきました。二人は夫婦のようでした。
ふと顔を上げてあたりを見回すと、いつの間にか待合室は随分混み合ってきていて、辺りにはさざめきのような、自分の耳にはわからない異国語に満ちていました。船に乗る前から、ここはもう中国だったのでした。

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 出国審査の列に並び、タラップを昇ってフェリーに乗り込むまではあっという間でした。私のチケットは一番安い雑魚寝部屋のもので、部屋には灰色のカーペットが敷かれている他は、隅に布団や枕や毛布が積んであるだけです。左の壁には丸い窓がはめ込んであって、港の向こう岸に立ち並ぶたくさんのクレーンが見えました。その景色が、かすかに、ゆっくりと上下して見えます。船が波に揺られているのです。
ふと周りを見ると、同室の人々もまた、窓から外をのぞいています。出航を前にして、誰もが少なからずわくわくしているようでした。振り返ると、5歳くらいの男の子が、胸の前に小さなリュックを抱えて立っています。彼も外の景色を見たいのでしょう。場所を譲ると、嬉しそうに駆け寄ってきて、私や他の乗客と同じように一生懸命に外を眺め始めました。
「何が見える?」と私は聞いてみました。
窓から目を離して、男の子は不思議そうな目でこちらを一瞬見つめました。そして、パッと駆け出したかと思うと、通路側の床に早くも布団を敷いて寝ていたお父さんらしき人に飛びつきました。二人の中国語の会話が聞こえてきます。お父さんの大きな体に隠れて、彼がこっそり私の方を伺っているのがわかりました。目があって笑いかけると、またさっと隠れてしまいます。

 船が動き出した後、甲板に上がってそこからの景色を見ながら、井上武士の「海」という歌を思い出していました。

うみにおふねを うかばせて
いってみたいな よそのくに

 船は徐々に速度を上げ、大阪港はみるみるうちに小さくなって行きます。いままさに自分は「よそのくに」へ行こうとしている、もはや引き返せない。逃げ道をいくら考えても無駄なことだ。そう思うと、奇妙なことに、かえってさっきまでの不安が和らいでいくのを感じました。そして、かわりにかすかに愉快な、笑いたくなるような感じがやってきました。私は調子っ外れな「海」を口ずさみながら、真夏の強い日差しと吹き付ける潮風の中、港のあった風景がどんどん小さくなってゆくのをしばらくの間見つめていました。

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